SOUTH SEAS VOICE WORKSHOP

オックンチュラン・カンプチア 3

2月18日(木)
 朝5時頃、相部屋の日本人2人は起きて出ていった。私も目を覚まし「さようなら」を言って再び寝る。次に起きた時は9時前であった。顔を洗って1階の食堂へ。固いフランスパンと紅茶のブレックファースト。カンボジアの旧宗主国はフランスということでパンがうまい。数年前に行った、同じく旧フランス植民地のベトナムもフランスパンがとても美味しかった。
 昨日に比べ今日はお腹の調子も悪くない。ゆっくり食べて銀行へ行くことにする。キャピトル・ホテルの前はバイク・タクシーがいっぱいたむろしているが、そのひとつをつかまえて、カンボジア・コマーシャルバンクまで。トラベラーズチェックを交換したいのだが、チェック1枚につき2%のコミッションがとられるという。しかし、コミッション1%で出来るところがあるというので、他を探すことにする。次に行ったサイアム・シティーバンクではチェック1枚につき3ドルとのこと。銀行のお姉さんは「1エクスチェンジで3ドル」と言ったので、1回の両替を300ドル交換するれば1枚あたり1ドルになると思ってやることにしたら、実際はやっぱり1枚につき3ドル。高いので、また別の銀行を探すことにした。名前はちょっと忘れたがカンボジアなんとか銀行。ここもコミッションは2%。というわけで、結局2%で妥協することにした。300ドルの交換はちょっと多い気もするが、まあ、カセットやCDをいっぱい買うと思ったので良しとした。
 銀行めぐりの際、バイクのおっちゃんはよく道を間違える。プノンペンの地理をちゃんと把握しているのだろうか。まあ、みんなやる気だけは感じるのだが。支払いは1回乗る度に1000リエルで、なかなかリーゾナブル。
 銀行での両替を終え、帰りの便のリコンファームとアンコールワット行きチケット予約のため、カンプチア航空事務所へ連れて行ってもらうことにした。ここでもバイクのおっちゃんは道を間違え、結局11時半の昼休み時間に間に合わず、しょうがないので、辺りを適当にまわってキャピトル・ホテルへ戻ることにした。ホテルまでもまた別のバイク・タクシーを使ったが、それもまた運ちゃんはよく分かっていないうちに出発しようとする。やっぱりみな地理が分かっていないのだろうか。
 部屋に戻って顔を洗い、再び外に出る。映画にもなったキリング・フィールドへ行くことにする。部屋を出て階段を降りたところで先ほどのバイクタクシーのおっちゃんに会う。キリングフィールドまで往復3ドル。片道15kmもあるのでちょっと安いくらいかな。キリングフィールドに向かう前に、カンプチア航空のオフィスへ再び行って、アンコール・ワットまでのチケットを頼むことにするが、満席。キャンセルが出るかもしれないから、4時にもう一度来いという。その間にバイクに乗ってキリング・フィールドへ。
 「キリング・フィールド」とは俗称だが、正式には「チョエン・エク」という名前の地である。プノンペンを離れるに連れて段々と静かになり、辺りには牛や豚が歩いていたりする。高床式の家が建ち並び、広い荒れ地の続くところに出ると、そこがキリングフィールドであった。
 ここで強制労働をさせられたあげく、数万人もの人々がポルポトによって殺害されたという。当時の骨もところどころ残っている。骸骨が祈念塔の内側に積み上げられて保存されている。それにしても凄い量の骸骨で、血の気がひく思いだ。ここで行われた虐殺も実はそう遠い昔のことでなく、つい十数年前のことだというから、その恐ろしさを実感する。
 キリング・フィールドを後にし、プノンペンに戻ることにする。バイクの運ちゃんが「ミュージアム」というところに行こうと思うが、時刻は4時過ぎ。再びカンプチア航空へ向かう。アンコール・ワット行きのチケットがとれた!明日7時半の便だ。ちょっと早いが頑張って起きよう。
 さて、先ほどの「ミュージアム」へ。ここはポルポト時代、拷問所であった。「トール・スライン」という。出入口のところには、当時拷問を受けて足を失った人が数名、物乞いをしていた。
 トール・スラインはもともと高校の校舎だったらしいが、校内にはどんよりとした空気が漂う。かつて教室だった空間にベッドがひとつ。壁に掲げられている写真は、ベッドの上で拷問を受けた人が死んでいるもの。十数年前、まさに目の前にあるこのベッドで行われたのである。
 このような拷問部屋がいくつも続く。当時の拷問の様子を描いた絵もあった。熱いお湯の中に足を突っ込まれたり、舌をペンチで引き裂かれたり、悲惨な光景が描かれていた。
 続いて入った部屋には、殺された人々の写真が壁にずらっと掲げられている。首から番号の書かれた札をかけさせられた、まるで標本のような写真。その隣の部屋には、本物の骸骨でカンボジアの国土を形どったオブジェ。前には線香が焚かれてあり、彼らの怒りと悲しみがもろに突き刺さってきた。こういうのを目の当たりにするのは初めてだ。
 更に2階は煉瓦で狭く仕切られた独房がずらっと並んでいる。ひとつひとつに鎖が置いてあって、多くの人々がここに閉じこめられていたのである。この空間に足を踏み入れた途端、気分が悪くなってしまった。あまりにも強烈な空間がここにそのままリアルに残っていた。これは「ミュージアム」を越えている。
 身体が震えるままホテルに戻った。とりあえず、食堂に座り、紅茶でも飲みながら、バイク・タクシーのおっちゃんに日本語を教えたりした。おっちゃんは勉強熱心。明日はアンコール・ワットを目指す。おっちゃんが明日、空港まで1ドルで私を送ってくれる。
 さて、今朝出ていった日本人2人のかわりに、今晩はフランス人がひとり相部屋となった。彼は2カ月ほど前に国を出て、インドネシアをぐるっとまわってきたそうで、インドネシア語も結構喋れる。私もインドネシアは得意なので、話が弾んだ。また新たな出会いである。一緒に食事しながら、夜を過ごした。